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組曲「吹雪の街を」考 (8) IV. 秋の恋びと

詩の冒頭で、晩秋の歌であることがわかります。
秋を描いたd-moll(ニ短調)の男声合唱曲といえば、なんといっても堀口大學訳詩・南弘明作曲「秋の歌」(曲集「月下の一群 第1集」より。混声合唱版もある)。物憂き悲しみをたたえた曲想は「秋の恋びと」に通じるものがあります。
多田武彦作品でd-mollで秋の歌だと、せきが思い浮かぶのは「やがて秋…」(男声合唱組曲「ソネット集」第4曲)なんですけど、こちらはメランコリックではあるものの初秋〜中秋が舞台です。
譜面を眺めると、やたら16分音符が続いていて、しかも符尾が拍単位でつながっておらず音節単位で切り離されているので(かつてはそれが正統とされていたわけですが)、リズム読みしづらいと感じる人もいそうです。
これは多田氏がしばしば使う、parlandoなrecitativoの効果を狙った書き方です。具体例は、「かきつばた」(組曲「柳河風俗詩」第3曲)中盤の「けえつぐり(中略)ちい消えた」に始まり、「父が庭にいる歌」(組曲「父のいる庭」第1曲)や、組曲「蛙」の第2〜4曲や、「甃のうへ」(組曲「わがふるき日のうた」第1曲)や、「夜ふる雪」(組曲「東京景物詩」第6曲)などなどなど。
この書法は、歌舞伎、能、狂言、文楽などのような、多田氏が影響を受けたと自ら公言する古典芸能の「語り物」のエッセンスを取り入れたものと思われます。
16分音符が連なるフレーズを含む声楽曲の多い作曲家には高田三郎氏もいます。高田氏も、自らの書くparlandoな旋律は語り物の流れを汲むものであると著書『来し方』などに記しています。
なお、高田作品についてはグレゴリオ聖歌の自由リズムから影響を受けた部分もあるのですが、こちらについて多田作品にあてはまるかどうかは存じません。
詩の字面だけを追うと、恋愛相手が自分に対して一線を越えてくれないことにもどかしさを感じているように読めます。
ただ、伊藤氏自身がのちに著した小説『若い詩人の肖像』によると、この時期には重田根見子なる女性と交際していながらも、イエイツによる一節「秋が来た。木の葉は散り、君の額は蒼ざめた。今は別れるべき時だ」を思い起こし、別れの予感に独り酔いしれていたところだそうです。
自らの恋愛と重ね合わせている詩は、William Butler Yeats「The Falling of the Leaves」と思われます。原詩はたとえば「The Lied and Art Song Texts Page」などを、その和訳は「ケペル先生のブログ: イギリスの秋」を参照。
それを前提に「秋の恋びと」を読み返すと「The Falling of the Leaves」の影響がありありと見て取れますね。
伊藤氏はこの詩人にたいそうな影響を受けたようで、詩集『雪明りの路』に収められた詩には「Yeats」というタイトルの作品もあります。
曲はテナー系vs.ベース系の2部合唱が骨組みになっていて、ベース系のユニゾンから始まったフレーズにテナー系が乗っかったり、テナー系のあとをベース系が追いかけたりという部分が多いです。4声揃って縦割りにハモる部分は全体の4分の1弱。
テナー系のあとをベース系が追いかけるくだりは、ベース下の自分にとって、フォルテで張り上げたくなる音域なのにメゾフォルテ指定、しかも先行するテナー系を潰さないように歌わないといけないので、若干の欲求不満をおぼえるところです。
サウンドは耽美的でありつつも歌うときのカタルシスが少ないのは、「(3). 多田武彦におけるこの組曲の位置づけ」の繰り返しになりますが、詩を忠実に音像化する多田作品ならではといえましょう。
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