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多田武彦先生 逝去

男声合唱曲をたくさん書いた作曲家の多田武彦先生(直接ご指導を受けたことがあるのでこの敬称を使います)が昨年12月12日に亡くなられました。どうぞ安らかに。


訃報そのものは逝去一週間後くらいからネット上で出回っていましたが、公式な情報解禁は本日2018年1月8日14時でした。この日に行われた「なにわコラリアーズ ただたけだけコンサート Vol.5 〜火の国に雪は降るのか?〜」の演奏会場ロビーに掲示されたご遺族からのお手紙で公知となりました。合唱団お江戸コラリアーず公式Twitterアカウントにお手紙の写真が載っているので、こちらを紹介します。


多田先生は、ご本人が作品リストをこしらえ管理しておられました。私はコピーを拝見したことがあります。一般公開厳禁という扱いだったため公式に広まらなかったのが残念です。「多田武彦〔タダタケ〕データベース」などに載っている作品リストは作曲者公認ではありません。

せきが初めて歌った多田作品は、大学1年次の立教大学グリークラブ男声定期演奏会、北村協一先生アンコール「月の光」(『中原中也の詩から』終曲)でした。

フルで歌ったことのある組曲は、初演奏順に『尾崎喜八の詩から』・『わがふるき日のうた』・『草野心平の詩から』・『在りし日の歌』・『柳河風俗詩』・『ソネット集』・『富士山』・『雨』・『叙情小曲集』の9作品です。意外と少ないですね。『叙情小曲集』は初演に参加しました。『ソネット集』は初めて歌ったのが第1回OB六連で、出版初演にあたります。

組曲全曲でない形だと、同じく初演奏順に「十一月にふる雨」(『雨』差し替え前の第4曲)・「八戸小唄」(『海浜の日本民謡』第2曲)・「渡り鳥」(『水墨集』終曲)・「冬の明け方」(『冬の日の記憶』第1曲)・「或る誕生」(『雪国にて』第2曲)・「雨後」(『追憶の窓』第3曲)・「片恋」(『雪と花火』第1曲)・「アカシアの径」(『ポピュラー・ソング・アルバム』第4曲)・「宇宙線驟雨のなかで」(『草野心平の詩から 第三』第4曲)・「春を待つ」(『雪明りの路』第1曲)・「Fiore」(立教男声が大久保昭男先生にご指導を受けて25周年を記念し書き下ろしていただいた曲)・「砂上」(『海に寄せる歌』第1曲)・「仔羊」(『海に寄せる歌』第2曲)・「忍路」「また月夜」「夏になれば」「秋の恋びと」(『吹雪の街を』第1〜4曲)・「かもめ」(『中勘助の詩から』第5曲)・「雪中越冬」(『雪国にて』終曲)といったところです。書洩らしがあるかもしれません。「Fiore」は初演でした。なお「Ful Ful Wonderful」は歌った経験がありません。

実演および録音で聴いたことのある作品は、演奏体験のあるものを含めて全体の4割くらいだと思います。そのうち組曲全曲初演を客席で拝聴したのは『白き花鳥図』男声版・『遠い母に』・『わが心の詩』男声版・『達治と濤聲』の4タイトル。

所持する出版譜は、音楽之友社から出た「多田武彦男声合唱曲集」シリーズ全8巻と、同「多田武彦混声合唱曲集」シリーズ全3巻と、メロス楽譜から発売された全タイトルと、カワイ楽譜から出た『達治と濤聲』『京洛の四季』。大学卒業時点で現役出版譜だったものは概ね買い揃えることができました。


多田作品の魅力が、男声合唱サウンドの勘所や歌い手の生理を熟知したハーモニーや「詩に寄り添う」ことをモットーにした楽曲構成にあることは、あちこちの紹介文などで指摘されるところですし、まったくもって私も同感です。

若くして老成したようなところがあり、荻久保和明作品みたいな狂気の爆発とは対極に近いのですが、いったん独特の滋味を知ると抜け出せない。私自身、男声合唱沼にハマった大きな要因のひとつが多田作品です。

男声合唱団トルヴェールで取り組んでいた『吹雪の街を』については、2009年に『組曲「吹雪の街を」考』という記事群を書きました。当ブログでは、いちおう完結した数少ない連載のひとつです。いま改めて見返すと、わが多田作品観の一端があらわれているように思います。


多田先生にお目に掛かったことは3〜4回あります。前述の第1回OB六連では、合同ステージを多田先生に指揮していただき、本番ほか2回ほどのリハーサルでご指導を受けました。併せて、単独ステージ『ソネット集』の練習でもレッスンいただきました。のちに『叙情小曲集』初演にあたっても練習におみえになり、ご指導を受けました。

レッスンの内容は、全日本合唱連盟による季刊誌「HARMONY」での連載に記されたことや、加藤良一氏による「多田武彦<公認サイト>」に載っていることが骨子です。御自ら編集した音源を駆使し、声楽にとどまらず広沢虎造の浪曲や当時放映されていたCMソングなども含む豊富な実例に沿ったワークショップののち、実際に演奏する楽曲について発声・発音・発語を中心に練り上げていくというリハーサルの進め方でした。

せきは一度だけ多田先生と電話したことがあります。OB六連の練習時に用意した畳スリッパがいたくお気に召したとのことで入手先をお知らせするのが用件でした。多田先生は長電話で有名だったので覚悟していたのですが、2分ほどで通話終了でした。


合唱界における功績を考えると不思議なことですが、季刊誌「HARMONY」で断続的に連載されていた作曲家を囲む座談会に、多田先生は取り上げられていません。多田先生はかねてから表舞台で顔を晒すことをあまり好まれなかったようで、それが理由の一つと思われます。演奏会の広報物などに顔写真が載ることも稀でしたから。

ここ十何年か「もともと病弱なうえ、主治医から制限されているため、外出はなるべく差し控えている」と公言しておられました。作曲活動は晩年まで精力的でいらっしゃいましたが、ここ十年ほどは「余命幾許もない今、作品を書き残しておこう」という意識で作曲に取り組んでいたようです。


多田先生は、邦人作曲家だと團伊玖磨や中田喜直の作品を好んだとのことです。一方、三善晃作品については敬遠しておられたふしがあります。高田三郎作品や萩原英彦作品あたりをどう評価しておられたか、個人的に気になるところです。(差し障りがないと思われる物故者のみに話を絞りました。一部の作曲家や演奏者について辛辣な批評をしておられましたが、対象者がご存命であるうえ、多田先生と音楽観や方針を異にする方々と思われるので、委細は差し控えます)


多田作品には、一部楽章が差し替えられたり順序が入れ替えられたりした組曲がいくつかあります。公式には「作品の構成上の都合」という事情説明でした。

大半の組曲について、詩の一部語句がはらむ言葉狩りの可能性をなくすためという説が広まっていますが、ご本人はそういった事情には言及しておられません。言及なさらなかった理由については、憶測ですが、そういった事情の存在を明示すること自体に問題があるとお考えになったがゆえの配慮ではなかろうかと私は思います。



※作曲家(敬称略)を追悼する当ブログの記事

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