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組曲「吹雪の街を」考 (10) VI. 吹雪の街を

組曲の終曲は、ある青春恋物語のエピローグでもあります。
「十九の年に見た乙女」は、第4楽章『秋の恋びと』のお相手と同一人物。伊藤氏自身による小説『若い詩人の肖像』には重田根見子の名で登場し、のちの研究で本名が根上シゲルと判明した女性です。
結局は程なくして根見子(シゲル)さんと別れてしまったのですが、伊藤青年は根見子(シゲル)さんを忘れられず、『秋の恋びと』から1年たった冬に彼女の住む余市郡余市町の街を未練がましく徘徊するさまを描いたのがこの詩です。
恋の顛末については深沢眞二氏の著書『なまずの孫 1ぴきめ』を。
第1楽章『忍路』と同じホ短調、その曲で愛しの乙女が出てくるくだりとほぼ同じ「4分音符=約80」のテンポ(厳密にいえば『忍路』後半は「4分音符=約76」でほんの少しゆっくりですが)で作曲されています。
第1楽章と終楽章が同じ調性というのは多田作品にしばしばみられ、組曲を円環としてかたちづくる効果があります。その上、テンポ感や、旋律線のリズムパターンが似通っているのですから、一つの物語の終わりという印象は倍加します。
冒頭でBas.のパートソロによって提示され、次いでtuttiで繰り返される音型は、そのあとTen.I→Ten.IIのパートソロでもバックコーラスとして歌われ、さらに曲のラストでBas.のパートソロ→tuttiが再現されます。
スラーが付けられていますが、これはスラーが付けられた範囲を1フレーズで歌えという指示ではなく、スタッカート記号と合わせて「メッツォスタッカート(もしくはメゾスタッカート)」を意味します。スタッカートは音符の長さを本来の半分で演奏するという指示。メッツォスタッカートは普通の音符とスタッカート付き音符の中間なので、理論的には「3/4倍の長さ」ということになります。
「柳河風俗詩」第2楽章『紺屋のおろく』にスタッカートとテヌートを混ぜたような表情記号が出てきますが、あれとほぼ同義ですね。
なお、多田氏は、フレージングの単位を示す意味でスラーを使うことは基本的にやらない作曲家です。
「いずれ別れる」〜「涙となる 涙となる」まで、詩に沿った起伏によるダイナミクスの変化を伴い、甘い恋の思い出に浸りつつ慟哭します。
前5楽章まではタダタケ節が控えめだったところに、曲の半分ほどを費やして延々とタダタケ節が続くのですから、ここはあたかも組曲全体のサビを歌っているかのような感覚が味わえます。
ただ、詩が未練がましさたっぷりですから、ハーモニーの美しさに酔いしれることはできても、それはカタルシスには結びつかないわけで。
サビで高ぶった思いは、Ten. I→Ten. II→Bari.→Bas.と音域が低くなりながら受け渡されるパートソロで鎮まってゆきます。主人公の思いが内向化してゆく、ということなのでしょうか。
もとの詩はこの部分で終わるのですが、楽曲では冒頭を再現するコーダが付け加えられて終わります。恋を求めた青春の歩みはまだまだ続く、ということなのでしょうか。
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組曲「吹雪の街を」考 (9) V. 夜の霰

組曲の中では唯一、女のにおいが全くしない楽章です。荒ぶる自然を描くことにより、『夏になれば』とは違うアプローチで、それまでの楽章から空気を変える効果を狙ったものでしょう。
1997年度・第50回全日本合唱コンクールの課題曲M3として選定されたことがあるので、20代後半以降でコンクールに興味を持つ合唱人には、他の楽章より馴染みがあるかもしれません。
8分の6拍子には、とうとうと流れるような雰囲気の歌が多いというイメージがあります。有名どころでは、連作交響詩『わが祖国』第2曲『Vltava』の第1主題(「モルダウ」の名で独唱や合唱に編曲されているアレ)、『早春賦』『仰げば尊し』『みかんの花咲く丘』などなど。合唱曲だと、新実徳英作曲『鳥が』とか、荻久保和明作曲『IN TERRA PAX』(組曲の表題曲)とか。
でもこの『夜の霰』は、流れるような雰囲気とは異質な曲想。作曲家によっては3連符を多用したノーマルな2拍子として記譜する人もいそうです。
組曲全体を通して半音進行が多用されていることは別の項目でも指摘していますが、その傾向がもっとも分かりやすいのがこの曲目です。いきなりG4(一点ト音)から始まるTen. Iの歌いだしとか、Bari.・Bas.「がいとうのひだにひだに」とか、内声パートが2連符で主旋律を歌うくだりでのBas.とか。
セブンスやディミニッシュの和音が多いのでハモった快感は味わいにくいですが、フォルテ系のダイナミクスが中心ですし、音域もやや高めなので、「声を出した」という原始的な感覚は強い楽章のように思います。
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組曲「吹雪の街を」考 (8) IV. 秋の恋びと

詩の冒頭で、晩秋の歌であることがわかります。
秋を描いたd-moll(ニ短調)の男声合唱曲といえば、なんといっても堀口大學訳詩・南弘明作曲「秋の歌」(曲集「月下の一群 第1集」より。混声合唱版もある)。物憂き悲しみをたたえた曲想は「秋の恋びと」に通じるものがあります。
多田武彦作品でd-mollで秋の歌だと、せきが思い浮かぶのは「やがて秋…」(男声合唱組曲「ソネット集」第4曲)なんですけど、こちらはメランコリックではあるものの初秋〜中秋が舞台です。
譜面を眺めると、やたら16分音符が続いていて、しかも符尾が拍単位でつながっておらず音節単位で切り離されているので(かつてはそれが正統とされていたわけですが)、リズム読みしづらいと感じる人もいそうです。
これは多田氏がしばしば使う、parlandoなrecitativoの効果を狙った書き方です。具体例は、「かきつばた」(組曲「柳河風俗詩」第3曲)中盤の「けえつぐり(中略)ちい消えた」に始まり、「父が庭にいる歌」(組曲「父のいる庭」第1曲)や、組曲「蛙」の第2〜4曲や、「甃のうへ」(組曲「わがふるき日のうた」第1曲)や、「夜ふる雪」(組曲「東京景物詩」第6曲)などなどなど。
この書法は、歌舞伎、能、狂言、文楽などのような、多田氏が影響を受けたと自ら公言する古典芸能の「語り物」のエッセンスを取り入れたものと思われます。
16分音符が連なるフレーズを含む声楽曲の多い作曲家には高田三郎氏もいます。高田氏も、自らの書くparlandoな旋律は語り物の流れを汲むものであると著書『来し方』などに記しています。
なお、高田作品についてはグレゴリオ聖歌の自由リズムから影響を受けた部分もあるのですが、こちらについて多田作品にあてはまるかどうかは存じません。
詩の字面だけを追うと、恋愛相手が自分に対して一線を越えてくれないことにもどかしさを感じているように読めます。
ただ、伊藤氏自身がのちに著した小説『若い詩人の肖像』によると、この時期には重田根見子なる女性と交際していながらも、イエイツによる一節「秋が来た。木の葉は散り、君の額は蒼ざめた。今は別れるべき時だ」を思い起こし、別れの予感に独り酔いしれていたところだそうです。
自らの恋愛と重ね合わせている詩は、William Butler Yeats「The Falling of the Leaves」と思われます。原詩はたとえば「The Lied and Art Song Texts Page」などを、その和訳は「ケペル先生のブログ: イギリスの秋」を参照。
それを前提に「秋の恋びと」を読み返すと「The Falling of the Leaves」の影響がありありと見て取れますね。
伊藤氏はこの詩人にたいそうな影響を受けたようで、詩集『雪明りの路』に収められた詩には「Yeats」というタイトルの作品もあります。
曲はテナー系vs.ベース系の2部合唱が骨組みになっていて、ベース系のユニゾンから始まったフレーズにテナー系が乗っかったり、テナー系のあとをベース系が追いかけたりという部分が多いです。4声揃って縦割りにハモる部分は全体の4分の1弱。
テナー系のあとをベース系が追いかけるくだりは、ベース下の自分にとって、フォルテで張り上げたくなる音域なのにメゾフォルテ指定、しかも先行するテナー系を潰さないように歌わないといけないので、若干の欲求不満をおぼえるところです。
サウンドは耽美的でありつつも歌うときのカタルシスが少ないのは、「(3). 多田武彦におけるこの組曲の位置づけ」の繰り返しになりますが、詩を忠実に音像化する多田作品ならではといえましょう。
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組曲「吹雪の街を」考 (7) III. 夏になれば

この組曲では唯一、長調で書かれた楽章です。
組曲全体、特に前後の楽章の重たい空気を和らげる役割があり、それゆえかこの曲単品でアンコールピースとして取り上げられることもしばしばあります。
曲の大半を占める長い独唱が特徴的ですね。
多田氏はアリア的なフレーズとレシタティーボ的なフレーズを意識して区別している作曲家ですが、伊藤整作品をテクストにした合唱曲では、非定型の口語体自由詩ということを反映し、レシタティーボ的なフレーズの割合が多くなる傾向にあります。
そんな中で、この曲の独唱部分は、組曲「吹雪の街を」では数少ないアリア的なフレーズで、長めな音符を歌い上げる割合が増します。
一方、合唱が詩を歌うくだりはレシタティーボ的な要素が増え、短い音符(ここでは8分音符)の連続が中心になって、独唱との対比ができるわけです。
オーソドックスなタダタケ節という印象の曲で、Bassパートのせきとしては、独唱を支えるハミングは、歌いながらコードネームを思い浮かべやすいところです。
ただ、中盤「たまさか」〜「あえば」でEs-dur→D-dur→Es-dur→D-durという、和声の教科書的に「オヤ?」という和音進行が混ざっていたりするあたり、この時期ならではのサウンドひとひねりだとも思います。
詩は、身近な女性の結婚を祝うものです。
ほっと一息な曲想から考えると、多田氏は、素直に祝婚歌と解釈して作曲したのでしょう。
だがしかし、他の詩に見え隠れする未練がましさから、せきは個人的に、どうしてもSUGARという女性3人組の「ウェディング・ベル」という1980年代前半にヒットした歌を連想してしまうのですね。どんな曲かご存じない人は、「歌ネット」に載ってる歌詞(パソコン向け携帯電話向け)を参照いただきたく。
ここで描かれる女性が誰なのかは明らかになっていません。深澤眞二氏の著書『なまずの孫 1ぴきめ』では、「II. また月夜」の項目で触れた浅田絶子(角田チエ)と解釈すると面白いだろうという仮説が記されていますが……。
先日、男声合唱団トルヴェールでこの曲を初練習したとき「えましげ」に引っかかった人がいました。
現代口語ではほとんど耳にしない単語ですが、辞書にはちゃんと「笑まし」で載ってます(例:goo辞書 – 国語辞典の【笑まし】)。
「ほほえましい」とほぼ同義語だそうですから、「笑ましげに挨拶する」は「ほほえましく(愛想よく)挨拶する」という意味ということになりそうです。
詩の「街では」から最後までは日本語としてやや分かりづらいかな。
「誰もありがちなこと」は、おそらく、目的語「女性の笑顔に不幸がうつる(顔を曇らせる)ことが」が省略されたものでしょう。
「この世を私もしんじるために」は、裏を返すと「あなたの笑顔に不幸がうつると、自分はこの世を信じられなくなる」ということですね。
最後の「うつらないように」は「うつりませんように」という祈願文。
「うつらないように」といえば、出版譜(手持ちのは1996年4月20日付けの第3刷ですが、トルヴェールの練習参加者が持っているより新しい版も同様)では、そこのTen. Iは「な」で4分音符になっていて「い」に音符がありません。
ここはたぶん誤植で、その前に出てくる「うしなわないように」と同じ音型と思われます。実際、せきが聴いた演奏では、そのように変えて歌っていたはずです。
詩を歌い終えたあと、冒頭のテーマをコンパクトに再現した形のハミングを後奏として曲が終わります。
このパターンのエンディングは多田作品としては珍しいのではないでしょうか。冒頭のテーマを繰り返して曲を終えること自体はしばしば使われる手法ですが、たいがいは詩(歌詞)をそのまま歌う形です。
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組曲「吹雪の街を」考 (6) II. また月夜

今年初めにやらかしたポカで、せきにとっては今後も悪夢になりそうな曲です(微苦笑)。
この楽章について真っ先に指摘しないといけないのは、組曲「雪明りの路」第3曲『月夜を歩く』とのつながりです。
テクストが採られた詩集「雪明りの路」では『月夜を歩く』の一つおいて次に『また月夜』が載っています。ほぼ同じ頃に書かれた詩と思われますし、内容的にも『また月夜』は『月夜を歩く』の続編もしくはバリエーションとみて間違いではないでしょう。
たぶんこれを踏まえたのか、多田氏は『また月夜』を『月夜を歩く』と同じe-moll(ホ短調)で書きました。曲想の指示は異なるものの、4分音符=88というテンポは『月夜を歩く』末尾(「あゝ 何のための」以降)と同じです。
(4) 楽章の流れ・構成」で「舞台となっている季節は晩春〜初夏にあたる時期と思われます」と記しました。その理由説明を。
この詩の中では草が長く伸びているので、少なくとも秋や冬や早春ではありません。
それ以上は『月夜を歩く』がヒントになります。『月夜を歩く』には、桐の花がにおうという描写が出てきます。桐は北海道では5月終わり〜6月初めに花が咲くので、前段落を踏まえると、『また月夜』は『月夜を歩く』と同じぐらい、もしくは少しあとの時期を描いているものと推測できるのです。
『また月夜』に描かれているのは、思春期ならではの片思いからくる妄想です。妄想内恋愛のお相手は、第1楽章『忍路』最後の「まなざしの佳い人」と同一人物で、伊藤氏自身がのちに著した小説「若い詩人の肖像」では「浅田絶子」という名前で登場します。彼女の本名が角田チエということも、のちの研究で判明しています。
伊藤青年は浅田(角田)さんの住む忍路にしばしば通い、浅田(角田)さんへのプチ・ストーキングっぽいことをして思いを寄せていたんですが、結局この片思いは実らないまま終わりました。
この曲の構成はわかりやすいですね。Bari.とBas.のユニゾンからTen.IIが加わる音型が冒頭に提示され、そのあとの展開のバリエーションで曲が進んでゆき、これがもう一度あったのち、サビにあたるフォルテのくだりとレシタティーボ的なつぶやきが挿入され、再び冒頭の音型で締めくくられるという形です。
冒頭の音型を核にした部分は情景描写、サビ〜つぶやきは恋のゆくえについての心情の吐露。
個人的には歌っていてモヤモヤしたものが残る曲です。
多田作品ならではの気持ちよいハモりは抑えられていて、サビでいわゆるタダタケ節が顔を出すものの、5小節ぐらいで高揚は鎮まり、和音が転回形になったり、ぶつかったり、ユニゾンで2声になったりします。
前半に出てくるBas.の半音進行は詩の主人公の自己陶酔が反映されているのでしょうか?
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