この記事は立教大学グリークラブに関する内輪話です。
拙サイトにおける主要コンテンツ「日本の絶版・未出版男声合唱曲」の更新を優先すべき現状ではありますが、どうにも引っかかる発言を目にしたもので……。
去る2023年7月9日に「第43回立教大学グリーフェスティバル 創部100周年記念・皆川達夫先生追悼演奏会」が開催されました。同演奏会のパンフレットに「創部100周年記念・皆川先生追悼メッセージ」という2ページの企画があり、4氏の寄稿が掲載されました。
物申したい案件とは、その中で先々代の立教大学グリークラブOB会長を務めた佐藤正朗先輩による寄稿『皆川先生の深い悩み』です。全文を参照いただくべくスキャンした画像(クリックもしくはタップすると拡大バージョンが表示される)を貼りつけておきます。

くだんの文章の主旨は、佐藤先輩がOB会長を引き受けて間もない2002年のある日、皆川達夫名誉部長から「立教大学グリークラブの初代部長を務めた辻荘一先生から生前『貴方がついていながら、一体立教大学グリークラブはどうなっているのか』とお叱りを受けた」と話しかけられ、翌2003年に皆川先生と佐藤OB会長のお二人が現役の夏合宿を訪問して対話集会の場を持ったという内容です。
この文章には、明らかに事実に反する記述と、わたくしの認識と異なる記述が含まれています。該当箇所には画像に赤い下線を引きましたが、文字でも引用します。
明らかに事実に反する記述とは、佐藤先輩卒団後の現役の状況をまとめた下記の一節です。
グリークラブではドイツリードやイタリヤ歌曲など他国の言語による難しい曲を演奏する事すら無くなってしまったのである。男声、女声による演奏会では、主に日本の作曲家による合唱ばかりが演奏されるようになってしまった。
上記の真偽は、立教大学グリークラブ Official Website「過去の演奏会」から確認できます。男声定期演奏会・女声定期演奏会とも「第71~80回(1980~1989)」以降を見ると、皆川先生のステージ以外に他国の言語による曲が毎年1〜2ステージ取り上げられており、「日本の作曲家による合唱ばかり」のプログラムが組まれ始めたのは夏合宿での対話集会が行われた年度よりあとです。
さらに、立教グリーは演奏会で必ず宗教音楽のステージを持つべしという辻名誉部長の遺志を、女声は2013年度まで(2014年度に途切れるが2015年度より復活)、男声は現在に至るまで踏襲していることも確認できます。
わたくしの認識と異なる記述とは、先に引用したのと同じ段落の前半にある一節です。
人間という存在は、常に楽な方向に流れがちである。我々が卒業した後からは、次第に男声、女声が別々の定期演奏会を開催するようになってしまった。
定期演奏会が男女別々の開催になった理由って「楽な方向に流れ」た結果なのでしょうか? 男女合同で演奏会を開くほうが、出演人数が多く、ステージ数的にも金銭的にも負担を抑えることができて「楽」なように思われるので、自分にとっては腑に落ちないところです。
現役公式サイトの女声定期演奏会史リストには《立教大学グリークラブは、1979年までは男女とともに定期演奏会を行っていました。しかし団の規模の拡大に伴い、1980年以降は基本的に男声・女声それぞれ別の定期演奏会を行うようになりました。》と前置きが記されてます。まさしくこの通りでしょう。
わたくし個人は、定期演奏会が男女別になったのは、1977年より指揮者としてご指導いただいた北村協一先生の影響(ご意向かどうかは存じません)によるものかもと推測しています。北村先生は立教グリー現役を男声と女声で独立した存在になさろうとお考えだったような節があります。1994年および1996年に北村先生が先約で立教グリーを指揮できなかったとき、女声へは太田務先生および湊晋吾先生、男声へは佐藤宏先生を紹介したのが、傍証にあたるように思われます。
なお、わたくしが現役2年生だった1993年度、女声定期演奏会と男声定期演奏会の連続企画としてパンフレットで当時の4年生の一部メンバーによる座談会記事が掲載されました。その中で、女声の演奏会マネージャーが「70周年記念として男女合同で定期演奏会を開催しようという案があった」と発言していたり、キャプテンが「髙坂徹さん(当時、OB男声合唱団の指揮者)が『自分の代が4年のとき定期演奏会を男女別開催にしたけど、団そのものを男女で別個にしたおぼえはない』とおっしゃっていた」と発言していたりします。
佐藤先輩が記している出来事があった今世紀初頭の現役男声は、OB男声合唱団の有志が、1996年度より指揮・指導を受けている髙坂徹先輩のアシスタントをしつつ、また現役男声から離れかけていた北村先生との関係(経緯は当ブログの記事「北村協一先生にまつわる思い出 (3)」で少し触れている)を繋ぎ留めようとしつつといった状況でした。わたくしも2003年頃まで末席を連ねさせていただいていたので、OB男声の先輩から当時いろいろ伺っていました。
わたくしの記憶が確かならば、皆川先生とOB会長が夏合宿の対話集会に臨んだ趣意は、OB会長が現役だった時代に比べ昨今における現役の負担が増大した状況をどうにかしたいというあたりにあったように伝え聞いております。
ついでに極私的な憶測を付け足すならば、辻先生が亡くなられた1987年から十数年も経ったタイミングで皆川先生が辻先生の教えを取り戻そうとする動きを起こしたのは、ふたつの意味で北村先生の影響が弱まったことが関係しているのではと、わたくしは想像します。ひとつは辻先生逝去からしばらく皆川先生は北村先生への気兼ねなどで不満を表に出せなかったが、主に現役男声と北村先生の間に距離ができたことから不満を表に出しやすくなったように感じたのではないかということ。もうひとつはOB会長の交替です。佐藤先輩の前任者にあたる星野紘先輩や、そのまた前任者にあたる長谷川功先輩は、OB会長在任期間中OB男声合唱団などに参加し北村イズムを肌感覚で共有しておられました。佐藤先輩はお二方に比べると北村先生ともOB男声合唱団とも距離を置いてこられた御方なので、皆川先生の懸念をストレートに受け入れやすかったのではないかということ。
今月半ば、音楽之友社から「Dona nobis pacem 皆川達夫先生の想い出」と題する追悼文集が発売されました。
今世紀に入ってから皆川先生の後任として現在まで立教大学グリークラブ部長を務める立教大学教授・星野宏美氏による寄稿の半ばあたりに、立教大学グリークラブ現役が宗教曲を軽視したプログラムビルディングや演奏会最後の「神共にいまして」の取り扱いなどについて皆川先生から叱責された件について触れられています。詳細はぼかされていますが、恐らく2004年以降の年度で起きた出来事で、この仮定が正しいなら前述した夏合宿の一件を経ても皆川先生の憤懣は解消されなかったであろうものと思われます。
ご参考までに、皆川先生は2004年以降、体調不良を理由に、立教大学グリークラブ現役の定期演奏会では単独ステージを持たなくなりました、一方で定期演奏会クロージングの「神共にいまして」は2010年代前半あたりまで指揮しておられます。グリーフェスティバルでは2004年・2006年・2007年・2015年(米寿記念)・2017年(卒寿記念)に皆川先生が指揮する単独のステージがありました。グリーフェスティバルで皆川先生が「神共にいまして」を指揮したのは恐らく2018年が最後です。
最後に別の観点から、立教グリーファミリーと皆川先生との間に生じた齟齬の理由と疑われる要素をもうひとつ指摘しておきます。すなわち、辻名誉部長が示した立教大学グリークラブの方針でいう「宗教音楽」がさす範囲のことです。
ルネサンスのミサ曲やモテットが含まれることは言うまでもありません。皆川先生が立教グリーで取り上げたことのあるバッハ、ヘンデル、モーツァルト、シューベルトあたりまでについても問題はないでしょう。たとえばプーランクみたいな20世紀以降の作曲家は対象に含まれるか否か。たとえば髙田三郎による日本語の典礼音楽(立教グリーでは取り上げたことなし)はどうか。そこらへんの認識を共有しきれないまま選曲したことが齟齬につながったのかもしれないように私には感じられます。