和合亮一作詩/信長貴富作曲「Fire」攻略にあたってのメモ

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このたびは、昨年10月22日に行われた第59回長岡市民音楽祭で初演され(せきも参加)、直後にカワイ出版から楽譜が発売された、和合亮一作詩/信長貴富作曲「Fire」を紹介する。


基礎知識

5分くらいの単曲。合唱祭や演奏会アンコールなどで単独で取り上げるもよし、ほかの単品(和合+信長コンビによるものもいくつか)と組み合わせてオムニバスステージとするもよし。

楽曲の成立過程については背景まで踏み込んだ説明を信長先生が出版譜に書いておられるので、本記事では補足程度にとどめたい。

出版譜には、委嘱者として長岡市民音楽祭実行委員会と記されている。この音楽祭は回によってテーマが変わる。第59回は「合唱」がテーマで、フィナーレで新作初演が目玉として企画された。おとなとこどもがともに愛唱できるうたというリクエストで委嘱され、曲だけでなく詩も書き下ろされた。

この記事を書いている時点で、同声合唱版混声合唱版の2種類が存在する。両バージョンは同時演奏可能で、実際に初演は長岡少年少女合唱団による同声合唱版と合唱祭のために公募された市民合唱団による混声合唱版を一緒に歌った。このときは作曲者の指示で、同声合唱版と混声合唱版で同じ音型を歌う主旋律および一部のオブリガードについて楽譜どおりに演奏した箇所(こども・おとな一緒に)と、少年少女合唱団のみが歌った箇所(市民合唱団の該当箇所は休符)と、市民合唱団のみが歌った箇所(少年少女合唱団の該当箇所は休符)があるスペシャルバージョンによる演奏だった。

同声合唱版と混声合唱版は、83小節目4拍目裏から87小節目1拍目にかけてピアノの左手が異なり、同声合唱版のほうが細かく動く。すなわちピアノが低音域を増強する形で作曲されている。ここから「同声合唱版」は児童合唱もしくは女声合唱による演奏が想定されているものと推測できる。同声合唱版と混声合唱版を一緒に演奏する場合ピアノパートは混声合唱版を用いるのが望ましいであろう。

蛇足ながら、男声合唱版の誕生を期待したいところ。

基礎知識

同声合唱のみによる初演は、2023年12月10日に行われた「第20回リリックホールコーラスフェスティバル」における長岡少年少女合唱団の単独ステージ(中村美智子指揮, 箕輪美帆ピアノ)。

混声合唱のみによる初演は、越の国室内合唱団 VOX ORATTA(仁階堂孝指揮, 石川潤ピアノ)のはず。

今年に入り、2月18日にSchola Cantorum Kumamoto(スコラ・カントールム熊本)による「信長貴富作品展vol.7」で恐らく混声合唱版(雨森文也指揮, 平林知子ピアノ)が取り上げられた。また、7月6日に予定されている「豊中混声合唱団 第63回定期演奏会」では同団と豊中少年少女合唱団の合同(西岡茂樹指揮, 武知朋子ピアノ)で、混声合唱版と同声合唱版が同時演奏されることがアナウンスされている。

演奏可能な人数

混声合唱版はdivisiがないため4重唱で演奏可能。

同声合唱版は2重唱で演奏可能。Divisiがあるものの、どれも省略可という扱い。すべてのdivisiを採用する場合は第Iパート・第IIパート各2名、計4名が最低限必要。

響きの分厚さで勝負する曲ではなく少人数でも説得力ある演奏は十二分にできる。ところどころテンポが動くため指揮者がいるほうが歌いやすいが、ピアニストの弾き振りでも演奏は成立しそう。もちろん息の長いフレーズづくりを目指すなら人数が多いにこしたことはない。

演奏の極私的ポイント

初演指揮者・仁階堂孝先生は「この曲は長岡まつりの大花火大会から着想されたものである」とおっしゃっていた。大花火大会については出版譜の前書きで信長先生が言及していらっしゃる。和合亮一先生も新潟県にゆかりがあって大花火大会をご覧になったことがある由。ただ、花火が着想のひとつであるにせよ、また長岡市から生まれた合唱曲であるにせよ、ご当地ものというわけではないことを確認しておきたい。

詩で描かれる「火」は夕焼けの茜色の比喩とも解釈できるし、何らかの心象の動きとも解釈できる。和合+信長コンビによる「夜明けから日暮れまで」に出てくる野火を連想する人もいらっしゃるだろう。

詩の登場人物は「きみ」「ぼく」の2名で、恐らく「きみ」=「友だち」。こどもがリアルタイムで体感したことを描いているとも解釈できるし、年を経て昔の思い出を回想しているとも解釈できる。

混声合唱版は4声体だが、ユニゾンが多用されており対位法とかハーモニーの複雑さは控えめなことからもわかるように、旋律主体で書かれている。同じ作曲者の『思い出すために』あたりを連想する人もいるだろう。

詩の「1」「2」「*」で始まるまとまりが有節歌曲の1番・2番・コーダとして作曲されている。また、1番と2番については大きなまとまりがAメロ・Bメロ・Cメロとでもいうべき3つぐらいのまとまりに分けられており、転調によって区分されている。

先に有節歌曲と記したが、より正確にいうと、ポップスの語法で作曲されている。16分音符単位のシンコペーションが多用されているあたりからは桑田佳祐とかMr. Childrenとかいった方面が想起されるところ。譜面を見てウッと尻込みする人もいそうだが、クラシックの文脈で言い直すと「recitativo」、すなわち言葉の持つリズムやアクセントに沿って語るかのような書き方であることが飲み込めれば、さほど高いハードルではなかろう。「言葉の持つリズムやアクセントに沿って」について「くもよそのたかみで」という一節を例に挙げて説明を試みる。楽典的な拍節どおりに歌うと「苦も 他所のた カーミで」みたいな発語になりやすいが、詩が「雲よ その高みで」である以上そう聞こえるような言葉の捌き方が求められる。他の信長作品で類例を挙げるなら「ヒスイ」の「だからこそ僕は」が「だから コソボ 桑」にならないように、みたいなこと。

初演前日のステージリハーサルで信長先生が「この曲はポップスの語法を使っているが、リズムやビートを刻むのはピアノに任せ、合唱はレガートに歌ってほしい」とおっしゃっていたことをここに記録しておく。

ところどころテヌート記号やアクセント記号が付されている。いずれも発語を助けるためのものであろう。どう読み取りどう表現するかは演奏者次第。

30小節および62小節「真っ赤な」と31小節および63小節「小さな」の間で切りたくなるところだが、繋げて歌うほうが詩に沿っているのではなかろうかと個人的には考える。

エンディングで合唱はAs-dur(調性をAs-durとするならIの和音)で終わるかと思いきや、次の小節で内声パートがC→Des、Es→Fへと動き、Des-dur(調性をAs-durとするならIVの和音)で締めくくられてピアノに座を譲るのもポイント。

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