カテゴリー: 薀蓄や個人的見解

あさって歌う2つのモテット

あさって歌う2つのモテット

きたる10/24に開催される「第1回 にいがたコーラスアンサンブルフェスティバル」で新潟ユース合唱団が取り上げる曲のうち、Giovanni Pierluigi da Palestrina作曲「Sicut cervus」「Super flumina Babylonis」について。
この2曲は、いずれも旧約聖書の「詩篇」からテクストを求めています。
詩篇とは神を賛美する詩で、全150篇あります。詳しくは、日本語版Wikipedia「詩篇」の項を。
いま日本のカトリック教会やプロテスタントで最も多く用いられている新共同訳聖書でいうと、「Sicut cervus」は詩篇42:2(第42篇の第2節)、「Super flumina Babylonis」は詩篇137:1-2(第137篇の第1〜2節)に作曲されたものです。
全音楽譜出版社「イタリア宗教曲集 1」の巻末解説では「詩篇41」「詩篇136」みたいに番号が1つずれていますが、これは別の底本による日本語訳(新改訳聖書など)に付けられている番号です。
詩篇42は全12節(冒頭の「コラの子〜」を1節とカウントした場合)、詩篇137は全9節から成ります。また、詩篇42は詩篇43「Quia tu es Deus」(全5節)と合わせて一つのまとまりを形作ると解釈する人もいます。
「Sicut cervus」については詩篇42・43の全文、「Super flumina Babylonis」については詩篇137の全文を読むと、作曲された部分からは分からないことが見えてきます。そこには、穏健な曲調からは想像がつかないほど激しい心情が描写されてます。ぜひ一読をおすすめします。
ただ、Palestrinaはこれらの詩篇を典礼の場面で歌うために作曲しました。神に捧げる曲である以上、奥に秘められた心情をぶちまけるようなハシタナイことを避けたのでしょうかね? まあ、われわれ現代人も、しかるべき様式を踏まえて演奏したいものです。
「Sicut cervus」で歌われるテーマを一言にまとめるなら「神への渇望」でしょう。第5節以降では、強い信仰心をもって逆境から這い上がろうとする思いが綴られています。
「イタリア宗教曲集 1」の譜面には、原詩と高野紀子氏による日本語詞が併記されています。日本語詞はなるべく同じ譜割りで歌えることを優先したもので、巻頭に「きわめて自由な訳文」と断り書きがあります。
その「Sicut cervus」日本語詞末尾の「とこしえに」は原詩にない単語ですが、作曲されていない部分の原詩を読むと「とこしえに」に深い意味が込められているような感じがします。
「イタリア宗教曲集 1」の巻末解説では「Sicut cervus」の出典について「2節から4節まで」と記されてますが、この曲集には2節による曲の譜面しか載ってません。ハテと思った人もいるはず。
実は、Palestrinaは、3〜4節をテクストにした「Sitivit anima mea」というモテットも作曲しています。「Sicut cervus」のすぐ後に「Sitivit anima mea」をattaccaでつないで演奏することもしばしばありますし、この2曲をまとめ「Sicut cervus」と題して歌うこともあります。CDやYoutube動画などにあるPalestrina「Sicut cervus」の音源で5分を超えるものは、「Sitivit anima mea」を合わせた演奏と思って間違いないでしょう。
「Super flumina Babylonis」はバビロン捕囚で捕虜となったユダヤ人の詩です。
曲中「Sion(シオン)」とは、エルサレムにある「神殿の丘」です。一般にはエルサレム全体を指す場合もありますが、第5節以降に「Jerusalem」が出てくるので、狭義に解釈したほうがよさそうです。
詩篇137全体を通して見ると、聖地エルサレムを忘れまいとする強い念が込められていることが分かります。
第3〜4節で、バビロニア人が捕虜に向かって「座興として、お前らの賛美歌を歌え」と命じられ「異境でそんなことができるかよ!」と反感を抱いたことが描かれています。
すなわち、Palestrinaが作曲した部分に出てくる「flevimus(涙を流した)」はホームシックの涙ではなく、悔しさ・情けなさが込められているのです。また、楽器を柳の枝に掛けたのは、一息ついてということではなく、座興として賛美歌を求められたことへの拒否であり、バビロニア人へのささやかな抵抗ということなのでしょう。
曲が長和音で締めくくられているのは、信仰の強さによる確かな意志のあらわれなのでしょうか。とらわれの状況から脱する希望が込められているのでしょうか。また違う意味でしょうか。
蛇足。Palestrina作曲のモテット「Super flumina Babylonis」には、オッフェルトリウム集の1篇として作曲された5声バージョンもあります。

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鬼が笑えど来年度Nコンの話を

鬼が笑えど来年度Nコンの話を

2010年度NHK全国学校音楽コンクール課題曲の概要が発表されました。テーマは「いのち」。

○小学校の部

作詞(作詩):里乃塚玲央/作曲:横山裕美子

不勉強でお二方とも詳しく存じ上げません。

ちょいと調べてみたところ、里乃塚さんは長いことアニメソングを手がけている職業作詞家で、近年は中高生向けの合唱曲も手がけている人だそうです。「季刊 合唱表現」第23号に「今どき、子どもの歌考」と題したコラムを寄せておられ、……って、この号、せき買いました。持ってるはずなんですが現物がどこぞに紛れ込んでしまい、記憶も曖昧ですみません。巻頭に掲載されているのは確かです。子ども向けに作られてTVなどで流れる歌にが込められている工夫とかいった雰囲気の内容だったような。

横山さんは、小学生向けの2部合唱曲をたくさん書いておられる人だそうです。

○中学校の部

作詞(作詩)・作曲:大塚愛

いろいろ物議を醸しています。「3年続けて中学生の課題曲がポップスかよ」「ピークを過ぎている人が、『手紙』『YELL』に倣った売り出しにかかっているのでは」「軽薄な曲ばかりで盗作疑惑さえあるのに」といった批判が出ているようです。

不評の声は理解できます。でも、せきはいずれ大塚さんが選ばれるであろうと思っていましたし、悪くない人選だとも考えてます。森山直太朗さんぐらいの時期でも不思議はなかったぐらい。

どこかのインタビュー(TVだか雑誌だか失念)で大塚さんご本人が「自分は自己主張の手段として作曲するのでなく、マーケティング的なことも考えて商品としての曲を書いている」みたいなことを言っていたのに接し、シンガーソングライターにしては珍しいと驚いた覚えがあります。のち、週刊文春の連載「考えるヒット」で近田春夫さんが似たような指摘をし、近田さんの慧眼に改めて感服したものです。

閑話休題。大塚さんは秋元康さんみたいな職業作家的スタンスの人。職業作家ならば合唱コンクール課題曲として中学生が歌うことを十分わきまえたものを書くはず。だからせきは楽観視と期待をしています。

なお、この人は作詞・作曲に苗字抜きの「愛」名義を使っているようなので、課題曲もそうクレジットされると思われます。

○高等学校の部

作詞(作詩):谷川俊太郎/作曲:鈴木輝昭

テーマ的に、いまどきのベタと呼んでもいいくらいの布陣。発表されたとき、前日の中学校の部とは比べ物にならない湧き上がりっぷりでした。

合唱人には馴染み深いコンビなのですが、合唱作品って実は混声・女声ばかりで、このコンビによる男声合唱曲は恐らく来年度課題曲が初と思われます。

谷川氏のテクストによる男声合唱曲は結構ある(有名どころで「ことばあそびうた II」「クレーの絵本 第2集」などなど)のに対し、鈴木氏の男声合唱曲が少ないのです。「日本の絶版・未出版男声合唱曲」→「サ行の作曲家」に列挙したものと、原曲が誰の作曲か分からないので載せてない編曲作品「砂山」がすべてのはず。

せきが接した記憶のある鈴木氏の男声合唱曲は、組曲「ハレー彗星独白」の譜面および実演と、組曲「銀幕哀吟」の譜面ぐらいです。男声では効果的な響きが得られにくい「低音域での密集配置・音のぶつかり」を多用しているのを見ると、あんまり男声合唱を書き慣れておられないような印象を受けます。そこらへんが来年の課題曲でどうクリアされるのか、すなわち編成による演奏効果に有利不利が生じないかどうか、楽しみなところです。

『新しい歌』改訂で何がどう変わったか概観する(混声篇)

『新しい歌』改訂で何がどう変わったか概観する(混声篇)

昨日付けエントリ「譜面入手 & 連載再開予告」の続きということで、混声合唱版「新しい歌」旧版と改訂版の出版譜をざっと見比べてみました。
本エントリ執筆にあたって参照したのは、旧版の初版第1刷と、改訂版の新第1刷(通算23刷)です。
ライナーノーツには改訂に当たって作曲者が次のように書いておられます。

《新しい歌》を作曲してから約10年が経ち、これまで実演に接して気になっていた楽譜上の表記をこのたび見直すことにいたしました。変更内容は強弱記号やピアノのアーティキュレーションといったディテールがほとんどであり、聴いた印象が変わるというものではありません。

実際はどうなのか。確かに「ディテールがほとんど」で、音楽の屋台骨に影響するほどの大改訂ではありません。でも、旧版の譜面を見ながら改訂版の演奏を聴くと「ン?」と思う人も案外いそうな変更が目白押しです。
これからこの組曲もしくはその収録曲を演奏する人におかれましては、正誤表で済まさず、改訂版の譜面を買いなおすほうがよいと思います。
以下、変更点を、営業妨害にならない範囲でざっくり概観します。
全編にわたり、テンポ指定が「=」から「≒」に変わって許容範囲が広がったことや、テンポ・強弱のめりはりがより明確になったことなどが、パート問わず挙げられる変更です。
テンポ・強弱の変わり目が前後した箇所や、細かいクレッシェンド・デクレッシェンドの繰り返しが大きな一つのクレッシェンド・デクレッシェンドに収斂された箇所もあります。
旧版では楽典的に間違った「piú ff」みたいな指定が目に付きました(piúは「より○○」という意味なので、強弱記号で後続するのは本来 f [forte] と p [piano] だけ)が、強弱指示が具体的なものになったり、大雑把に直前のダイナミクスより大きくしたい場合は「piú forte」と統一されたりしたことも、見落とせません。
合唱については、音・拍の取り直しが要る箇所があります。
「II. うたを うたう とき」については、第24小節の女声パートでdivisi(声部分割)のしかたが変更されています。
「III. きみ歌えよ」については、フレージングが分割されたヴォーカリーズがいくつかあります。
「V. 一詩人の最後の歌」については、第57小節で全パート揃って音符の長さが短くなっているのと、第93小節でAltoの音程が変更されているのと、第98小節のAltoが「B. F.」から「B. O.」に変わっているのと、同じ小節のBassでヴォーカリーズの譜割りが男声版(少なくとも旧版)と同じ形に変更されていることの4点に要注意です。
ピアノについては、強弱やテンポに関する指定の変更のほか、右手の和音の音数が間引かれている箇所が大半を占めます。左手を足す形で音数が増やされた和音もあります。音符の長さの変更やペダルの指示の追加もあります。
「III. きみ歌えよ」については、4分打ちでバンプを刻む和音の一部がDm(クラシック式に書くとd-mollの基本形)からB♭ on D(クラシック式に書くとB-durの第1転回形)に変更されています。
「V. 一詩人の最後の歌」については、合唱以上に大胆に手が加わった箇所が散見されます。大半は合唱が高揚する部分のバックで鳴る和音です。エンディングで合唱のロングトーンにかぶさる和音連打も書き直されており、旧版になじんだ人の多くがエンディングのピアノで目を丸くするのではと思われます。
サウンドに直接かかわりない譜面の変更点も挙げておきましょう。

  • 表紙に外国語タイトルとして「Cantos Nuevos」と書き足された
    (タイトル曲の原題をそのまま用いた模様)
  • 「IV. 鎮魂歌へのリクエスト」間奏の口笛について脚注が消された
    (『「IV. 鎮魂歌へのリクエスト」その2: ジャズとの関連』参照。ただし、ピアノパートに「※」の残骸がある)
  • 巻末の原詩について、作曲されなかった部分に対する強調修飾が斜体から傍線に変わった

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高橋悠治氏の合唱曲について小リポート

高橋悠治氏の合唱曲について小リポート

高橋悠治という音楽家がいます。ピアノ演奏や文筆などの活動でも名高いですが、ここでは作曲家としての高橋氏、それも合唱曲に焦点を絞って書いてみます。

高橋氏の合唱作品は、当サイトがお世話になっているScaffale氏作成の「高橋悠治合唱作品リスト」に2000年までのものがリストアップされています。また、高橋氏の公式サイト内「作品/楽譜」に、全ジャンルの作品リストがあり、何割かの楽曲の譜面が「ダウンロード・転送・演奏可能」なPDFファイルとして公開されています。前者は今世紀に入ってからの作品がなく、後者には主に初期の作品で記載されてないものがあるようなので、両者を足し合わせるのがよいでしょう。

PDF形式で公開されている譜面のうち、合唱曲および複数の声のための曲については、作曲年代順に『クリマトーガニ』『Metta Sutta(慈経)』『いろせす』『遠い島の友へ』『あなたへ 島』『夜,雨,寒さ』があります。

音源については、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の公式サイト内「演奏資料館」にて、法政大学アリオンコールが六連こと東京六大学合唱連盟定期演奏会で演奏した『回風歌』『冬のスケッチ』のライブ録音を聴くことができます。ただ、どちらの曲も演奏中に動き回ったりしていますし、『冬のスケッチ』については図形楽譜で描かれているので、音だけで知ることができるのは楽曲の一端だけといえましょう。せきは『回風歌』『冬のスケッチ』とも1度ずつ客席で実演に接しましたし、別の演奏をビデオで見たこともあります。また、東京都渋谷区恵比寿にある合唱センターの資料室で『冬のスケッチ』譜面を閲覧した憶えがあります。『回風歌』の譜面も閲覧できるはずですがそちらは見てません。

高橋氏による合唱曲は、西欧のオーソドックスな合唱曲とは明らかに異なるものが多いです。

日本を含むアジアに題材を求めた作品が多いこと、さらに氏が1970年代に「水牛楽団」を結成してアジアのプロテストソングを演奏していたことから、高橋氏をアジア志向の作曲家と見ることができます。

ただ、作風が西欧的でない理由を西欧嫌いだからと考えるのは短絡的です。演奏者としての高橋氏は西欧クラシックに属する楽曲をそうでない楽曲と分け隔てなく取り上げますから、アジア志向には別の理由があるということになります。

せきは、高橋氏の合唱曲について、氏が今の社会に抱く極めて強い問題意識や思想が作品の軸をなしていて、それゆえに強烈な個性を持つものと認識しています。

テクストのチョイスから高橋氏の問題意識や思想が表に出ている作品も少なくありません。

端的に分かりやすい一面として、政治・社会・時事的な要素が含まれたものを列挙します。

  • 毛沢東詞三首』
  • 成田闘争を扱った『三里塚』
  • 1948年に韓国済州島で起きた民衆蜂起を背景とする『遠い島の友へ』、同じく済州島を描いた『あなたへ 島』
  • 神戸高塚高校校門圧死事件被害者の女子生徒や学校でのいじめが原因で自殺した少年を題材にした詩を再構成して作曲した『ふしぎの国から』
  • 「EZLN(サパティスタ民族解放軍副司令マルコスの語るマヤの神話『密林のことば』より」という副題を持つ『夜,雨,寒さ』

ですが、そういうテクストによる合唱曲でなくても、高橋氏の問題意識や思想は同じように作品の中に存在します。

それを示す、高橋氏が自作について記した文章をふたつ引用します。

ひとつは、2008年5月に行われた第57回六連の演奏会パンフレットより、法政大学アリオンコール単独ステージ『回風歌』ライナーノーツ後半。

 普通の合唱曲のように声を同質にそろえて、いわゆる「ハモる」状態の共感共同体として上から統制されるのではなく、それぞれ自前の声の多用な音色が、その差異を生かして、一本の旋律を、擦れ合い、ずれながら、絡まりあう曲線の束に変えていく。それは同時期の「水牛楽団」の合奏法と似ている。それまでのイデオロギーと中央集権組織による抵抗運動の限界と崩壊を見ながら、東南アジアの村の音楽や、鶴見良行がそこで出会った村落民主主義、宮本常一が離島の寄り合いに見たものを、自己組織の方法として合唱の場で最初に実験したのが『回風歌』だった。

もうひとつは、1990年の法政大学アリオンコール第40回定期演奏会の演奏会パンフレットより、『冬のスケッチ』初演ライナーノーツ後半。

合唱団もそうだが、人間の集団というものは統制されればされるほど、自分の声をなくして軍隊や組や学校のようなこわいものになっていく。
ひとりずつがもっとばらばらであれば、争いもちいさく、全体の平和を乱すこともないのに。
ひとつのものにならないで、いっしょにいられるためには、どこかでバランスをとる必要がある。
その微妙なバランス点を見つけるための実験なのだ、これは。

《いわゆる「ハモる」状態の共感共同体として上から統制されるのではなく》は、氏がPDF形式で楽譜を公開している他の合唱作品群からも一目瞭然です。

統制を避け西欧流でない書式で書く理由が『冬のスケッチ』ライナーノーツに記されており、それは統制したがる傾向にある日本社会へのアンチテーゼとも解釈できます。

高橋氏の合唱曲は、超絶技巧系ではなくサウンド的に面白いものばかりで、近年は譜面がネット上で公開されて楽譜へのアクセスが容易になりつつありますが、そのわりに取り上げられることはさほど多くありません。大半は田中信昭氏および田中氏の流れを汲む指揮者・合唱団による演奏です。

強い個性を持ち万人ウケとは違う方向を向いていることと、個性の根幹を成す思想や問題意識を受容するのに柔軟さが必要なことが、演奏頻度がそう高くない理由なのかなと思います。


本稿は「原動機 −文吾の日記」の「[合唱]第25回宝塚国際室内合唱コンクール感想 その3」でコメント申し上げたことに端を発しますが、あくまでも発端でしかなく、目的はせきが認識するところの《『「高橋悠治作品」的なもの》を整理してまとめることにあります。

追記(2011年5月)

文中、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の公式サイト内「演奏資料館」について触れた箇所がありますが、六連の演奏音源は2010年8月より現在まで公開停止中のため、該当箇所を抹消しておきました。

追記(2018年5月)

デッドリンクとなった記述を削除しました。

発端となったできごとを含め何度か文吾氏にウザ絡みしたことが原因で、文吾氏は私とのコミュニケーションを拒絶なさるに至りました。彼は後にツイッターアカウントを開設して積極的にツイートしておられますが、私のアカウントは現在に至るまでブロックされております。気分を害したのが事実であるにせよ、当方に非はないと認識しているので、先様に詫びるつもりはありません。先様のコミュニケーション拒絶という意図を尊重するので当方から話しかけることも差し控えています。コンクールがらみの話題などでツイート内の引用が表示されないものが時折タイムラインに流れてくるのを見るたび「ああ、文吾氏のツイートが話題になっているのだなあ」と思うだけです。

サニーサイドミュージック社 廃業

サニーサイドミュージック社 廃業

今月のパナムジカ「新刊&新譜案内」で、ドヴォルザークによる独唱曲集を福永陽一郎氏が合唱編曲した男声合唱とピアノのための「ジプシーの歌」がキックオフから復刊されたという告知が載っていました。

そこに、ぶったまげる記述が!!

《出版社の廃業により長い間入手困難な状況になっておりました》

ここでは固有名詞が伏せられていますが、もともと男声合唱版「ジプシーの歌」を発刊していたのは、サニーサイドミュージックというところでした。「福永陽一郎コーラスコレクション」というシリーズの1冊(ほか、男声合唱版「さすらう若人の歌」と男声合唱版「Liebeslieder」の計3タイトル)でした。

昨年、男声合唱団トルヴェールが「アタックNo.1の歌」を取り上げました。猪間道明氏による編曲で、サニーサイドミュージック刊の男声合唱曲集「アニメヒーロー・ヒロイン伝説」に収録されているのですが、当時この楽譜を入手するのにとても難儀しましたっけ。

そのときは絶版になったのかなとも思っていたんですが、いま思えば廃業ということだったようですね。

余談ながら、「アニメヒーロー・ヒロイン伝説」は早稲田大学グリークラブが1994年の定期演奏会で「アニメの森にきてみろリン」というタイトルで初演しました。せきはこの演奏会の客席にいて、楽しいステージだったという記憶があります。

山古堂ブログさんの『号外!!2006年9月3日、「早稲田大学グリークラブ定期演奏会ライブ記録集」ついに完成!! (09/10)』で、このステージについて「著作権関連の許諾が得られなかったとのことで、最終的にライヴCDの販売が凍結された」とありますが、これを読んで譜面が出版されたこと(曲目は初演そのままのはず)に改めて驚いたものです。

閑話休題。

サニーサイドミュージックは、1997年1月の創業だそうです。

「Internet Archive Wayback Machine」に残っている記録によると、2007年2月6日時点では同社の公式サイトにアクセスできたようです。ということは、廃業はその前後と思われます。営業期間10年弱ですかね。

サニーサイドミュージックが特に力を入れていたのはトライトーンをはじめとするアカペラアンサンブルの楽譜出版だったように思います。

引越しでなくしてしまいましたが、せきは「アカペラ新聞」なる情報紙の準備号だか創刊号だかを読んだ覚えがあります。

ほか、せきが知る刊行物は、猪間氏・鈴木憲夫氏・倉知竜也氏・松永ちづる氏らによるポップスやアニメソングの編曲集とか、林光氏による合唱劇「ヴィヨン 笑う中世」とか、寺嶋陸也氏がフォスターの歌曲を女声合唱に編曲したものとか、カール・ホグゼット氏の発声教科書とか。

こうした出版物が埋もれてしまうことなく、「ジプシーの歌」みたいに、どこかの出版社が拾い上げて復刊してくださるといいですね。


付記(2014年7月)

男声合唱とピアノのための「さすらう若人の歌」は、2010年にカワイ出版から復刻出版されました。現在は受注生産扱いのようです。

「アニメヒーロー・ヒロイン伝説」収録曲のうち「銀河鉄道999」は、カワイ出版が刊行した男声合唱のための「アニソン・フラッシュ!」に、若干の改訂を加えた形で収録されました。また「宇宙戦艦ヤマト」は混声合唱に改作され、カワイ出版が刊行した混声合唱のための「アニソン・フラッシュ!」に収録されました。