カテゴリー: 思い出話

北村協一先生にまつわる思い出 (1)

北村協一先生にまつわる思い出 (1)

一昨日午後から「2011年東北地方太平洋沖地震」が起こり、現在も続いている。せきは新潟県中越地震と新潟県中越沖地震に被災した体験があり、TVで今回の惨状を見るたび当時のことを思い出して胸が重い。犠牲者のご冥福をお祈り申し上げるとともに、避難生活を余儀なくされている皆様にはどうか耐えて生き続けていただければと願う。



さて、2006年3月13日22時57分、北村協一先生が74歳で天に召された。あれから本日で5年。

逝去直後にWebで、また翌年2月24日に開催された『北村協一追悼演奏会 Love。』のパンフレットで、様々な方々が先生の思い出を綴っておられた。

そうした先達の皆様に比べれば末輩のせきだが、先生からご指導をいただく機会を得た者の端くれとして、これから何回かに分けて当時の記憶をアトランダムに綴ってみたい。

なお本シリーズは、当方の色眼鏡から事実誤認や誤記をやらかしているのではという危惧が、他のテーマにまして強い。


北村先生のタクトで初めて歌ったのは1992年、立教大学グリークラブ1年生のとき、第83回男声定期演奏会の最終ステージ「水のいのち」およびアンコール「月の光(組曲『中原中也の詩から』終曲)」。

1992年の北村先生+立教男声といえば組曲「雨」のレコーディング。これは2〜4年生による演奏で、せきは新入生ゆえ参加していない。六連で演奏した「雨」では客席で感涙した女子がいたという伝説を耳にした覚えがある。伝説が嘘か真かは知らねども、男声定期演奏会の録音でその再演を聞くと、さもありなんと感じる見事なサウンドである。


北村先生のサウンドを聴衆として最初に感銘を受けたのは、1993年1月だか2月だかの関西学院グリークラブ第61回リサイタルで聴いた、堀口大學作詩・多田武彦作曲の男声合唱組曲「雪国にて」。演奏者に新潟県出身者はいないはずなのに、高校時代まで暮らしてきた越後の冬の情景がリアルに演奏から伝わってきたことが不思議でならなかった。

余談。せきが立教大学グリークラブOB男声合唱団に参加していた頃、練習後の酒席で「北村先生の演奏で印象に残っているのは?」と尋ねられたことがある。前掲の話をしたら、とある先輩に冷笑された。その演奏は何かしら不備があったのかもしれないけれど……。当方もともと頭ごなしな物言いが大嫌いなのだが、他人の受けた感銘を否定するようなことはやめようとそのとき改めて思った。



東北地方太平洋沖地震の被災地には、石巻メンネルコールや花巻女声合唱団など、北村先生とご縁のあった合唱団もいくつか存在する。末筆ながら、メンバーの方々は大丈夫であろうか。

Golden days in the sunshine of our happy youth….

Golden days in the sunshine of our happy youth….

せきがオペラ的なステージへ出演したのは『直江の婿えらび』が生涯で2回目。



1度目は大学3年生のとき、立教大学グリークラブ男声上級生の一員として東京二期会オペラ劇場の公演に出た。

演目は、Sigmund Romberg作曲『学生王子』。学生がたくさん出てくる作品である。Bunkamuraオーチャードホールにて、1994年9月28〜30日の3回公演。オリジナルは英語だが、この公演では日本語で上演された。『学生王子(Student Prince)』はもともとミュージカルなのでオペラ扱いすることに違和感をお持ちの人もいらっしゃるでしょうが、そこらへんは大目に見ていただければと。

立教グリーや二期会合唱団の男声合唱が演じる学生は「ザクソン隊」「レニシア隊」の2群に分かれ、せきはザクソン隊だった。

主演は、初日と楽日が錦織健氏・足立さつき氏、中日が星洋二氏・澤畑恵美氏。指揮は飯森範親氏。

3日通しで笛吹きニコラス役で青島広志氏が出演していて、プログラムのパンフレットに文章を寄せておられた。

ちなみに腰越満美氏のオペラデビュー作でもある。


確か8月の半ば頃から、グリー本体の通常練習と別枠で、毎晩のように『学生王子』の練習があった。

練習場所は新百合ヶ丘とか豊洲とか、どっちにしろ大学のある池袋や当時せきが住んでいた川越からえらく離れていた。

演出・台本の中村哮夫先生は厳しくて、動きかつ歌いながら指示にこたえるのでアップアップだったけど、終わって振り返れば楽しかったなあ。


今年『直江の婿えらび』に参加したせきは、練習中や本番舞台裏で時折ちらほらと『学生王子』の日々を思い出していた。

そしてつい両者を比べてしまい、オペラづくりの手間暇を再確認するとともに、そういった活動を本業とする二期会の凄さを痛感するところがあった。一方で『直江の婿えらび』は地元民による地元民のための手作りオペラということもよく分かり、手間暇をもろともせぬ情熱も強く感じ取れた。



余談。

『学生王子』は北村協一先生の編曲・構成による男声合唱メドレーが知られている。編曲者による創意がかなり大きく入り込んだメドレーである。

曲順の入れ替えは2幕のオペラを合唱演奏会1ステージぶん(十数分)に凝縮することに伴うものだろう。ただ、それにとどまらず、和音配置なども大胆に手が加えられている。

ある後輩との再会

ある後輩との再会

前回は先輩との再会にまつわる話。そこからの連想で、今回は後輩と再会した話。


昨年、新潟ユース合唱団が関東合唱コンクールに出たときのこと。ロビーに見覚えのある女性がいた。おや、もしかしてトントンじゃないか?

トントンとは、立教大学グリークラブの後輩。せきが4年のときの1年にあたる。Sopranoだが、あのパートによくいるお姫様系キャラとは雰囲気が違い、庶民的で、いつも愛想が良かったような印象がある。高校時代から合唱をやっていて、立教グリー4年次は学生指揮者として女声定期演奏会を成功に導いた人。

トントンさん(以下、敬称を付ける)の卒団から1〜2年ぐらいは立教グリー関係の演奏会ロビーで挨拶していたが、いつの間にかご無沙汰になった。理学部を卒業してから大学院に進んだとかいう話を聞いた覚えはある。

トントンさんは千葉県代表になった合唱団のメンバーとして、りゅーとぴあに来ていた。演奏を聴きたかったが、既に終わったとのこと。どうも新潟ユース合唱団の直前練習と時間がバッティングしていたようだ。その団は金賞だったとのこと(全国進出は逃したようだが)、聴けなくてなおさら残念。

合唱連盟のコンクールに参加するような活動をしている立教グリーOBOGはほとんど知らなかったので、こんなところで会うと思っておらず、驚く。お互いそうだったようだ。

一方で、合唱を続けている後輩の存在を知って嬉しかったのも事実。

合唱を続けているという以外の近況とか、せきの団の演奏への感想を聞きたかったけど、そこまでの言葉は交わさずじまい。

トントンさんや他のOBOGと次に再会できる日はいつになるやら。ただ、どうも11/14の立教グリー100回定期演奏会は行けなさそうなので(チケット完売になったらしいし)、チャンスがあったとして来年以降になるけど。

名島先輩 → 名島先生

名島先輩 → 名島先生

第1回にいがたコーラスアンサンブルフェスティバルのゲスト講師・名島啓太先生と、ささやかな由縁がある。



1992年。せきは立教大学の1年生、グリークラブに入団して間もない頃。

部員の一部が揃って団を去り「混声合唱団 鈴優会」を立ち上げた。抜けたメンバーの一人が名島氏で、現在まで鈴優会の常任指揮者でいらっしゃる。

立教大学グリークラブは4年生が幹部、3年生が準幹部という体制で、2年次ではきたるべき準幹部および幹部に向け、クラブのありかたなどについて議論しあいつつ、役職決めを行う。その過程において名島氏の代では分裂が生じた、らしい。せきの事実認識はこの程度で、立ち入った経緯は分からない。

名島氏および鈴優会の歩みを見ると、立教グリーと袂を分かったのはむべなるかなと今は思う。


せきが把握している限り、立教グリーから鈴優会へ移ったメンバーは、当時の2年生が男声6名ほど+女声1名ほどと、1年生の女声2名(ざくっとした把握のため誤差があるかも)。

名島氏の代の男声については3分の1が抜けた計算になる。どれほどの衝撃か、お分かりいただけるだろう。


余談。鈴優会創設に伴って立教グリーを離れた同期2名のうち、1名は間もなく戻ってきた。

4年次の秋深い某日、そのへんの事情をご当人(戻ってきてからMezzo Sopranoのパートマスターになった)に尋ねてみたことがあるが、答えは「うーん、どうだったかな……」で終わったような。


ともあれ、立教グリー史上まれにみる大事件なのは間違いない。しばらく立教グリーの中に鈴優会を敵視するような空気があったことを覚えている。


鈴優会に移った先輩の中には、立教グリー在籍中、新入部員のせきに手ほどきした人や声をかけてくださった人もいらっしゃる。

だが、Second Tenorの名島氏とBassのせきが直に声を交わしたことは恐らく皆無。

せきが3年生のとき、産業心理学だか人間工学だかの授業で名島氏の姿を見かけたことがあるけれど、まだ鈴優会へのわだかまりが残っていたことなどで結局ご挨拶せずじまい。


鈴優会の演奏会は1度だけ拝聴したことがある。1994年11月に行われた第4回定期演奏会。演奏について印象に残っているのは、Sopranoが突出して大きく聞こえたということぐらい。同じ合唱団がのちに合唱連盟のコンクールで全国大会に進出しようとは想像もつかなかった。

その演奏会のパンフレットが手元にある。あちこちのページで大学4年生の名島氏が文章を書いているのを読み「才気走った人だ」と当時のせきは思ったものだ。



十余年の時は流れ。

2004年に郷里越後へ生活拠点を移したせきは、立教グリーOBOGと違う方面の合唱、なかんずく地元の合唱界に目を向けるようになる。そこで驚いたことの一つが、名島先生(ここから敬称を変える)が県内で複数合唱団を振っておられることだった。

名島先生の躍進ぶりは全日本合唱連盟の機関誌「HARMONY」などでちらほら目にしていたのだが、まさか当地で……。

2007年、新潟ユース合唱団が第2シーズンの活動として自前で演奏会を開催したとき、舞台袖で、賛助出演団体・合唱団ユートライの指揮者として出演していた名島先生と再会する。といっても当方は恐縮のあまり声をかけづらく、会釈申し上げたのみ。

ステージの合間にtek310氏が諸先生方にしたインタビューや、終演後のレセプションでのスピーチを聞いていて、名島先生の話し声が大学時代の記憶と違うような気がした。もし感じたことが正しければ、重ねた年月による変化と、発声トレーニングで変えたものであろうか。


そして先月の第1回にいがたコーラスアンサンブルフェスティバル。

名島先生の指揮により、Ariel Quintana作曲「Ave Verum Corpus」を公開リハーサル付きで合同演奏した。

テンポ・ダイナミクスの動きで音楽に命を吹き込むさまやリハーサルの進め方からは北村協一先生の匂い、テクストの流れを音楽に生かす曲づくりからは畑中良輔先生の匂い(北村先生も畑中先生も、名島先生が団員だったときの立教グリー指揮者)を、せきはかすかに嗅ぎ取った。

終演後、名島先生にご挨拶申し上げる。

「なんとお呼びしたらよいのか、……」と前置きして後輩と名乗ったがピンとこないご様子。せきの同期にあたる鈴優会在籍経験者の名前を挙げたら少しばかり懐かしそうなお顔になったが、いずれにせよ名島先生にとって自分は記憶のかなたでいらしたようだ。

ちょっとお話しさせていただき「丸くなられたなあ」と思った。あふれる才気は昔の演奏会パンフレットから感じたのと勝るとも劣らないながらも。

立教グリーOBOG多しといえど、合唱指揮者として独立してからの名島先生と、いま立教グリーOB男声・現役男声の指揮者であらせられる高坂徹先生(昭和56年卒)、ご両人のタクトで歌ったことがある者は、せきぐらいのはずだ。

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