田中信昭先生 逝去

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本年9月12日、合唱指揮者などとして活躍した田中信昭先生が心臓死により96歳で亡くなられました(東京混声合唱団公式サイトの訃報)。どうぞ安らかに。

田中信昭先生は、お名前の音読みから「シンショー先生」と呼ばれていました。以下、この記事では原則「信昭先生」と記すことにします。


当ブログで信昭先生について言及のある記事を列挙します。この記事に書く事項と重複がありますが、ご容赦を。

上記以外に、お名前だけが記された記事もいくつかあります。


せきが信昭先生による演奏を拝見拝聴するのは、東京六大学合唱連盟定期演奏会における法政大学アリオンコールの単独ステージが大半でした。前衛的な演目が多かったため、そっち系のイメージが強いです。法政大学アリオンコールは1980年代くらいまでは学生指揮者ステージで信昭先生と方向性が異なる演目を取り上げていたので団としてのバランスが取れていたように思いますが、1990年代頃から学生指揮者ステージも信昭先生のレパートリーに寄せた選曲が主になり、プログラムの前衛化傾向が強まりました。結果、時流の変化にうまく対応しきれず、瞬く間に団員が減少しました。これは信昭先生の功罪における罪によるところが大きいものと私は認識しています。

法政大学アリオンコールは前世紀末頃から少数精鋭で踏みとどまっていましたが、「アリオンコール総合サイト」の「法政大学アリオンコール HISTORY」によると、2014年度の項に「11月第64回定期演奏会が準備不足のため中止となる」と記載されています。これがアリオンと信昭先生との決別となりました。同団は運営体制を立て直すべくOBの力を得て2016年に蓮沼喜文氏を招聘し(恐らく2022年度の一時活動休止まで)、インターカレッジの混声合唱団として現在まで命脈を保っています。

現役六連以外で信昭先生による演奏を拝見拝聴したのは、せきが大学4年だった1995年11月26日に行われた「早稲田大学グリークラブ第43回定期演奏会」後半2ステージ『Magic Songs』『縄文土偶』と、2001年12月2日に行われた「東京混声合唱団 第182回定期演奏会」(三善晃氏に委嘱した『蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩』が初演された)と、2018年8月11日に行われた「第10回東京六大学OB合唱連盟定期演奏会」くらいだったはずです。


信昭先生の思想や人となりについて、私にとっては、1998年に発刊された「法政大学アリオンコール70年史」にまとめられた演奏会プログラムへの寄稿およびインタビュー・座談会記事や、1993年に発売された「音楽評論の開かれた場 ポリフォーン Vol.13/扉をあける人《柴田南雄》」に信昭先生が寄稿したシアターピース取材記や、2001年に発行された全日本合唱連盟の季刊誌「HARMONY」No.118の記事「特集・田中信昭指揮活動50年」などを通して知ったところが多いです。

2014年にヤマハミュージックメディアから発売された著書『絶対! うまくなる 合唱100のコツ』は入門書として書かれていますが、スキルや経験を問わない指摘が多いです。詳しくは発売後まもなく当ブログに書きました(記事へのリンクは上記)。

現在もネット上で読める記事だと、小学館「サライ」のインタビューハンナに何度か載ったインタビューがあります。また、信昭先生の生涯を通じて重要な共演者のお一人であったピアニスト・中嶋香先生のWebサイトに、お人柄の伝わる記述が散見されます。

余談ながら、中嶋香先生とは何年か前に御縁ができ、Eメールのやり取りを通じて御教示を賜ったり(2025年5月13日追記:間宮芳生作曲「居処」について取材をさせていただいたのでした)、ピアノソロリサイタルを聴きに伺ったりしたことがあります。信昭先生の訃報に接した折はEメールでお悔やみを申し上げました。


閑話休題。

信昭先生の指揮で歌った経験があるのは、大学2年次(1993年)5月1・2日の第42回東京六大学合唱連盟定期演奏会ただ1ステージで、曲目は合同演奏「哀しみの歌」およびアンコール「路標のうた」でした。

当時は己の浅学菲才ゆえ信昭先生の御指導がろくろく飲み込めず、覚えているのは「『あしひきの山、ほととぎす』でなく『あしひきの、山ほととぎす』」とか「最も美しいハーモニーは長2度」とか「この音程(確か、先行して歌うパートの3度下だったような)は必ず取れないといけない」など、ごくわずかです。いまなら何倍も消化吸収できるはずなのに、もう一度でも先生の御指導を仰ぐことができたならと悔やむところ。


先に法政大学アリオンコールのプログラムビルディングについて触れました。信昭先生の選曲にある種の強い指向性があることは「絶対! うまくなる 合唱100のコツ」巻末のレパートリーリストから見て取れるところでしょう。端的にいうと、現代音楽系が多く、でも木下牧子作品や千原英喜作品などには手を出さなかった(ちなみに多田武彦作品、鈴木輝昭作品、髙嶋みどり作品、山下祐加作品はごく僅かながら取り上げたことがある)というあたりです。同じく信昭先生が作品を取り上げたことのない信長貴富氏を東京混声合唱団がレジデントアーティストに招聘したとき、同団が信昭先生から巣立とうとしているものとせきは理解しました。

もっとも、信昭先生が日本の前衛系しか取り上げなかったというわけではないことを付け加えておきます。かの第九などオーケストラと共演する古典的大曲の合唱指揮でも定評を得ておられましたし、東京混声合唱団やびわ湖ヴォーカルアンサンブルなどでロマン派のスタンダードナンバーを指揮することも時折ありました。他の団でもルネサンスものを取り上げることがありましたし、法政大学アリオンコールでHeitor Villa-Lobos作曲「聖セバスチャンのミサ」を取り上げたこともあります。今世紀に入るあたりからはJ-POPの編曲集を委嘱して指揮することが増えました。また東京混声合唱団では、1981年には当時から現在までシンガーソングライターとして活動する矢野顕子氏に、1982年には当時ポップス畑の仕事が多かった坂本龍一氏に新曲を委嘱し、その初演を信昭先生が指揮したということがあります。


さまざまな作曲家に数多くの新作を委嘱し、繰り返し再演することで、先鋭的な語法に馴染ませつつ合唱のレパートリーを拡大してきたことは、信昭先生の偉大な功績です。やはり日本における合唱界のフロンティアであったといえましょう。

信昭先生の影響を受けた後進も大勢いらっしゃいます。方向性を忠実に継承し深化させている指揮者としては西川竜太氏、独自性も交えつつ信昭先生が蒔いた種を大きく育てていった指揮者としては栗山文昭氏あたりのお名前が思い浮かぶところです。


先駆者といえば、指摘しておきたいことがもう1点。

元号が平成になった前後から、信昭先生の指揮する合唱団で「委嘱支持会」の募集が行われるようになりました。作曲家へ新作合唱曲を書き下ろしていただくにあたり広く委嘱料の寄附を募るものです。信昭先生は、モーツァルトらが宮廷貴族などのスポンサーに支えられて活動していたことからの着想だという主旨のことをおっしゃっていました。

この委嘱支持会は、ここ数年さまざまなイベントの開催にあたって目にする「クラウドファンディング」のさきがけにあたります。20〜30年ほど時代を先取りしていたといえるでしょう。


本日は信昭先生が亡くなって3か月。文章をまとめるのに時間がかかり、だいぶ経ってからの公開となってしまいました。

と書いて締めくくろうとしたら、作曲家・間宮芳生氏の訃報を知りました。間宮作品は信昭先生が好んで取り上げた作曲家のお一人です。また、今年7月に亡くなられた作曲家・湯浅譲二氏の作品も、信昭先生はよく取り上げておられました。時代の節目ということなのかもしれません。改めまして、皆々様どうぞ安らかに。

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