カテゴリー: 薀蓄や個人的見解

組曲「吹雪の街を」考 (7) III. 夏になれば

組曲「吹雪の街を」考 (7) III. 夏になれば

この組曲では唯一、長調で書かれた楽章です。
組曲全体、特に前後の楽章の重たい空気を和らげる役割があり、それゆえかこの曲単品でアンコールピースとして取り上げられることもしばしばあります。
曲の大半を占める長い独唱が特徴的ですね。
多田氏はアリア的なフレーズとレシタティーボ的なフレーズを意識して区別している作曲家ですが、伊藤整作品をテクストにした合唱曲では、非定型の口語体自由詩ということを反映し、レシタティーボ的なフレーズの割合が多くなる傾向にあります。
そんな中で、この曲の独唱部分は、組曲「吹雪の街を」では数少ないアリア的なフレーズで、長めな音符を歌い上げる割合が増します。
一方、合唱が詩を歌うくだりはレシタティーボ的な要素が増え、短い音符(ここでは8分音符)の連続が中心になって、独唱との対比ができるわけです。
オーソドックスなタダタケ節という印象の曲で、Bassパートのせきとしては、独唱を支えるハミングは、歌いながらコードネームを思い浮かべやすいところです。
ただ、中盤「たまさか」〜「あえば」でEs-dur→D-dur→Es-dur→D-durという、和声の教科書的に「オヤ?」という和音進行が混ざっていたりするあたり、この時期ならではのサウンドひとひねりだとも思います。
詩は、身近な女性の結婚を祝うものです。
ほっと一息な曲想から考えると、多田氏は、素直に祝婚歌と解釈して作曲したのでしょう。
だがしかし、他の詩に見え隠れする未練がましさから、せきは個人的に、どうしてもSUGARという女性3人組の「ウェディング・ベル」という1980年代前半にヒットした歌を連想してしまうのですね。どんな曲かご存じない人は、「歌ネット」に載ってる歌詞(パソコン向け/携帯電話向け)を参照いただきたく。
ここで描かれる女性が誰なのかは明らかになっていません。深澤眞二氏の著書『なまずの孫 1ぴきめ』では、「II. また月夜」の項目で触れた浅田絶子(角田チエ)と解釈すると面白いだろうという仮説が記されていますが……。
先日、男声合唱団トルヴェールでこの曲を初練習したとき「えましげ」に引っかかった人がいました。
現代口語ではほとんど耳にしない単語ですが、辞書にはちゃんと「笑まし」で載ってます(例:goo辞書 – 国語辞典の【笑まし】)。
「ほほえましい」とほぼ同義語だそうですから、「笑ましげに挨拶する」は「ほほえましく(愛想よく)挨拶する」という意味ということになりそうです。
詩の「街では」から最後までは日本語としてやや分かりづらいかな。
「誰もありがちなこと」は、おそらく、目的語「女性の笑顔に不幸がうつる(顔を曇らせる)ことが」が省略されたものでしょう。
「この世を私もしんじるために」は、裏を返すと「あなたの笑顔に不幸がうつると、自分はこの世を信じられなくなる」ということですね。
最後の「うつらないように」は「うつりませんように」という祈願文。
「うつらないように」といえば、出版譜(手持ちのは1996年4月20日付けの第3刷ですが、トルヴェールの練習参加者が持っているより新しい版も同様)では、そこのTen. Iは「な」で4分音符になっていて「い」に音符がありません。
ここはたぶん誤植で、その前に出てくる「うしなわないように」と同じ音型と思われます。実際、せきが聴いた演奏では、そのように変えて歌っていたはずです。
詩を歌い終えたあと、冒頭のテーマをコンパクトに再現した形のハミングを後奏として曲が終わります。
このパターンのエンディングは多田作品としては珍しいのではないでしょうか。冒頭のテーマを繰り返して曲を終えること自体はしばしば使われる手法ですが、たいがいは詩(歌詞)をそのまま歌う形です。
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組曲「吹雪の街を」考 (6) II. また月夜

組曲「吹雪の街を」考 (6) II. また月夜

今年初めにやらかしたポカで、せきにとっては今後も悪夢になりそうな曲です(微苦笑)。
この楽章について真っ先に指摘しないといけないのは、組曲「雪明りの路」第3曲『月夜を歩く』とのつながりです。
テクストが採られた詩集「雪明りの路」では『月夜を歩く』の一つおいて次に『また月夜』が載っています。ほぼ同じ頃に書かれた詩と思われますし、内容的にも『また月夜』は『月夜を歩く』の続編もしくはバリエーションとみて間違いではないでしょう。
たぶんこれを踏まえたのか、多田氏は『また月夜』を『月夜を歩く』と同じe-moll(ホ短調)で書きました。曲想の指示は異なるものの、4分音符=88というテンポは『月夜を歩く』末尾(「あゝ 何のための」以降)と同じです。
(4) 楽章の流れ・構成」で「舞台となっている季節は晩春〜初夏にあたる時期と思われます」と記しました。その理由説明を。
この詩の中では草が長く伸びているので、少なくとも秋や冬や早春ではありません。
それ以上は『月夜を歩く』がヒントになります。『月夜を歩く』には、桐の花がにおうという描写が出てきます。桐は北海道では5月終わり〜6月初めに花が咲くので、前段落を踏まえると、『また月夜』は『月夜を歩く』と同じぐらい、もしくは少しあとの時期を描いているものと推測できるのです。
『また月夜』に描かれているのは、思春期ならではの片思いからくる妄想です。妄想内恋愛のお相手は、第1楽章『忍路』最後の「まなざしの佳い人」と同一人物で、伊藤氏自身がのちに著した小説「若い詩人の肖像」では「浅田絶子」という名前で登場します。彼女の本名が角田チエということも、のちの研究で判明しています。
伊藤青年は浅田(角田)さんの住む忍路にしばしば通い、浅田(角田)さんへのプチ・ストーキングっぽいことをして思いを寄せていたんですが、結局この片思いは実らないまま終わりました。
この曲の構成はわかりやすいですね。Bari.とBas.のユニゾンからTen.IIが加わる音型が冒頭に提示され、そのあとの展開のバリエーションで曲が進んでゆき、これがもう一度あったのち、サビにあたるフォルテのくだりとレシタティーボ的なつぶやきが挿入され、再び冒頭の音型で締めくくられるという形です。
冒頭の音型を核にした部分は情景描写、サビ〜つぶやきは恋のゆくえについての心情の吐露。
個人的には歌っていてモヤモヤしたものが残る曲です。
多田作品ならではの気持ちよいハモりは抑えられていて、サビでいわゆるタダタケ節が顔を出すものの、5小節ぐらいで高揚は鎮まり、和音が転回形になったり、ぶつかったり、ユニゾンで2声になったりします。
前半に出てくるBas.の半音進行は詩の主人公の自己陶酔が反映されているのでしょうか?
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ダンゴ声のCM

ダンゴ声のCM

一介のアマチュア合唱人がこういうことを申し上げるのは僭越至極でございますが、気になったこと。
昨日からTBS系で「総力報道! THE NEWS」というテレビ番組が始まりました。
いろいろなバージョンの告知CMが事前に流れていたんですが、そのひとつで小林麻耶アナウンサーが「ア、ア」と軽く発声練習をしているシーンを見て、せきは耳を疑いました。
小林アナ、その「ア、ア」、ダンゴ声!
(ダンゴ声 = 響きが鼻や軟口蓋にこもっていて前に飛ばない発声の俗称)
歌では主としてバスやバリトンの人に時々みられるのですが、女性がダンゴ声を出すのは、せきにとって初めて目・耳にするかも。まして声楽じゃない分野だと
「ア、ア」のあと「コバヤシマヤです」としゃべったときは普通のトーンだったので、よけい印象が強烈でした。
アナウンサーは声楽家でも舞台俳優でもないと言われればそれまでなんですけど、それにしても……。
問題のCMは、番組公式サイトの「THE ギャラリー」コーナーで動画が見られます。「カメラテスト」編というタイトルです。(パソコン限定。ブラウザによってはうまく再生できない場合がある模様)
※ 上記動画の公開が停止されたら、このエントリも非公開化もしくは削除する予定です。

組曲「吹雪の街を」考 (5) I. 忍路

組曲「吹雪の街を」考 (5) I. 忍路

半月あいてしまいましたが、個別の楽章に関する話に入ります。
第1曲『忍路』は、まだ男声合唱団トルヴェールでは取り上げたことがなく、しばらくは練習予定もなさそうな楽章です。
この楽章について前回「組曲全体の導入」と記しました。組曲全体で繰り広げられる青春模様の舞台を紹介する役割の楽章(のように見受けられる)ということです。
『忍路』は次の5パートで構成されます。
   a1. スキー風景
(フェルマータつき語尾 + 普通の8分休符)
   a2. 冬山で眼下に忍路を望む
(フェルマータつき語尾 + フェルマータつき4分休符)
   b1. 夏の日中の風景
(フェルマータつき語尾 + 普通の8分休符)
   b2. 夏の月夜の風景
(フェルマータなし語尾 + フェルマータつき4分休符 → テンポが変わる)
   c. 忍路という街の紹介
aとbは、途中accel.やrit.やフェルマータが挿入されるものの、基本となるテンポは4分音符=約96で一貫しています。
また、a1の後半からa2にかけて一時的に転調するのですが(ただし調号は変わらず臨時記号だけでの処理)、場面がすぱっと転換するのではなく、短時間で色合いが移り変わっていく形です。
曲の起伏とダイナミクスの大小は正比例するのが一般的ですが、この曲では必ずしもそうとはいえません。
音量が最大になる場所はa1末尾の「jumping stopした」です。しかし、曲そのものの心臓部は、「表情豊かに」かつ「mezza voce」で終始するcにあります。
ダイナミクスが小さくなるほど想いが濃密になってゆくということでしょうかね。
aの部分は音で絵を描くみたいな雰囲気です。
a1の冒頭はTen. IとBas.のオクターブユニゾンで始まり、Ten. IIとBari.が割って入るという、多田作品にはあまりみられない書き方です。ちなみに、外声部のオクターブユニゾンに挟まれて内声部が違う動きをするのは、木下牧子氏の男声合唱作品でしばしば、松下耕氏の男声合唱作品で時々みられます。
Bari.とBas.のユニゾンで直滑降したのち、accel.しながらBas.→Bari.→Ten. II→Ten. Iの順で「次々に」たたみかけてゆき、a2に入って全パートがオクターブユニゾンで終始するという流れです。
b1はa1をやや簡略化した書き方、でしょうか。
a2とb2はずっとユニゾン(同音およびオクターブ)という点が共通しています。
b2に出てくる「通った」はトオッタと作曲されていますが、男声合唱団「ホクレングリーンコール」公式サイトの「練習日誌(随時更新)」に「文法的にも状況的にもカヨッタと読むべきだろう」という疑義が記されています。
ここで作曲者がトオッタという読みを選んだ理由を考えてみると、もしかすると兄弟作品にあたる組曲「雪明りの路」第3曲『月夜を歩く』との通底が念頭にあったからではという推測が浮かびます。
『月夜を歩く』には「通りぬけ」という動詞が2度ほど出てきます。通り抜ける場所はいずれも「忍路の街」です。
ちなみに、深沢眞二氏の著書「なまずの孫 1ぴきめ」によると、b2には『月夜を歩く』の曲想が引用されているのだそうです。
cでは4分音符=約76と、ややゆっくりなテンポに変わります。
aおよびbは語りの要素を前面に出して作曲されているのに対し、cは歌いの要素が強い部分です。もっとも、mezza voceという指定がある以上、朗々と声を張り上げるわけではありません。
詩の終わり「あったが。」に対応して、曲は半終止となっています。すなわち、曲がIの和音(階名でいうド-ミ-ソ)でなくVの和音(階名でいうソ-シ-レ)で締めくくられるということです。
組曲全楽章を続けて演奏する場合、次の楽章『また月夜』が『忍路』と同じホ短調であることも手伝い、この半終止から「『また月夜』は『忍路』の続きなのかな?」「『忍路』の最後に出てくる人物が、組曲を通して詩人が思いを寄せている相手かな?」という印象が生まれるのですね。
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組曲「吹雪の街を」考 (4) 楽章の流れ・構成

組曲「吹雪の街を」考 (4) 楽章の流れ・構成

「合唱曲集」と「合唱組曲」を比べると、「曲集」だと小品の集合体という色合いが表に出ているのに対し、「組曲」はあるテーマを軸に収録曲(楽章)が並んでいて、しばしば楽章の順序に何らかの物語性が込められているところに違いがあるものと、せきは認識しております(もちろん例外もありますけど)。
そして、多田武彦氏は「合唱組曲」にこだわり「組曲の構築性」という言い回しを用いることもしばしばある作曲家です。
組曲「吹雪の街を」は、次の順で楽章が並んでいます。

  1. 忍路
  2. また月夜
  3. 夏になれば
  4. 秋の恋びと
  5. 夜の霰
  6. 吹雪の街を

タイトルを眺めただけでも、なんとなく四季の移ろいに沿ったっぽい並び順なんだろうなという感じがしますね。
第3曲以降で描かれている季節はタイトルどおり。第2曲「また月夜」の舞台となっている季節は晩春〜初夏にあたる時期と思われます(詳しくは「(6) II. また月夜」の項で)。第1曲「忍路」では冬のひとこまと夏のひとこまが描かれています。
多田作品では、楽章を四季の移ろいに沿った順序に配列することで、組曲全体にひとつの物語性を持たせる作品がしばしば見られます。せきが出版譜を所有する組曲に限っても「雪明りの路」「雨」「尾崎喜八の詩から」「わがふるき日のうた」「季節のたより」「尾崎喜八の詩から・第二」「樅の木の歌」「ソネット集」「尾崎喜八の詩から・第三」「叙情小曲集」などがこのパターンです。
ところで、組曲「吹雪の街を」では、季節のほかにもう一つの流れがあります。
(2) 伊藤整におけるテクストの位置づけ」および「(3) 多田武彦におけるこの組曲の位置づけ」で、この組曲では思春期の恋愛模様がクローズアップされていると述べました。
ここで偶数楽章だけ取り出すと「片思い状態(恋愛の前段階) → 別離の予感(恋愛中) → 失った恋への未練」という恋物語が浮かび上がるのです。
自然界と心象風景をダブらせた詩作は伊藤氏に限らないのですが、それを巧みに組曲のサブストーリーにした多田氏の構成は見事なものと言えましょう。
そして、組曲全体の導入である第1曲と、内向的で重たい前の楽章の空気を和らげ和ませる第3曲と、いったん男女関係から離れて荒ぶる自然を勢いよく描く第5曲を取り合わせることで、組曲全体に緩急をつけているわけです。
蛇足その1。
今年1月のアンコンで、男声合唱団トルヴェールは組曲「吹雪の街を」から第2・4楽章を選んで演奏しました。
本番前日でしたか、tree2氏が音楽監督を務める混声合唱団「カンターレ」がトルヴェールに引き続き同じ部屋で練習するということで、カンターレの女声メンバー何人かが早めに来ておりました。
練習の最後のほうでゲネプロみたいな感じで2曲通して歌ったところ、聞いていた女声陣が一言「……暗い」。
蛇足その2。
初出の詩集での掲載順(「日本詩人愛唱歌集」内「伊藤整 詩一覧」を参照)と、組曲「吹雪の街を」および「雪明りの路」での詩の並び順とを見比べると、異同があります。組曲における楽章の配列は、作曲者の創意によって再構築されたものなのです。
もっとも、詩集『雪明りの路』に収録されている詩群は、連作詩という意識で書かれたものではないようです。序文の中盤にこんな記述があります。

この詩集は或は一つのストオリーを追っているかも知れないが、それは私が編纂して了うまで気付かなかったものである。
作品の配列は主として制作の年代によったので、類同その他のことを少し考慮したに過ぎない。

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